萪内遺跡
遺跡の位置と立地
遺跡は繋温泉から西方へ約1km、雫石川が形成した沖積段丘に位置しています。 標高は165m前後で、遺跡の総面積は30,000㎡を越えます。
調査
萪内遺跡は、御所ダムの建設によって湖底に水没することになり、これに先立って昭和51年と52~55年にかけて2度の発掘調査がおこなわれました。その結果、縄文時代後期~晩期( 4000年から2300年前頃)の遺跡であることがわかりました。
見つかった遺構は、竪穴住居跡52、配石墓壙・貯蔵穴1460、木を使用した遺構(木造遺構)、縄文人の足跡98個です。住居跡や墓壙・貯蔵穴は比較的標高の高いところから、一方、木造遺構と足跡は雫石川側の低い湿地部分(旧河道)から見つかりました。
木造遺構にはえりや階段状の杭列、水汲み場・洗い場と考えられる施設があります。えりとは、川などに設置される、漁のための「わな」で、魚の習性を利用したつくりになっています。これらの遺構から、萪内の縄文人は川をたくみに利用し、その恩恵を受けながら生活していたことが想像されます。
見つかった遺物
土器 | 深鉢・浅鉢・注口など |
土製品 | 大型土偶を含む250余点の土製品、勾玉、耳飾り類、土器片製の円盤 土錘、スタンプ状、動物形、鐸形(たくがた)、中空球形(小球内蔵)、腕輪形など |
石器 | 石鏃、石錐、石匙、石斧など |
石製品 | 石棒、石剣、岩板、岩偶類など |
木器 | 皿、浅鉢、漆器など |
木製品 | 櫂(かい)状、砧(きぬた)状、トーテムポール状、杭など |
漆製品 | 櫛、籃胎漆器(らんたいしっき)*、弓類など |
*・・籃胎漆器(らんたいしっき)・・「かご」や「ざる」を芯として漆を塗り仕上げたもの。漆器の形の基礎となる部分を「胎(たい)」という。
写真の「トーテムポール状木製品」はクリ材に顔面の彫刻がほどこされたものです。
魔よけ、あるいはお墓のしるしに使われたものではないかと考えられています。
大型土偶頭部
墓壙群の周辺から、大型土偶の頭顔部が見つかりました。復元されたものは、頭のいちばん上から顎までの長さが23cm、左右の耳から耳までの幅が22.3cmもあり、実際の人間とほぼ同じ大きさに作られていることが分かりました。
頭部には縄文を施して頭髪を表し、耳は細部にわたるまで人体の特徴を写実的に表現しています。頭のてっぺんの部分には、径0.5cm、深さ1.5cmの穴が5つ、十字に並んでいます。これは羽毛などを刺し、装飾にするために開けられたと考えられます。同じような穴は耳から顎にかけてのラインにも等間隔に並んでおり、飾りを付け、ひげを表していたようです。
調査では、頭顔部の他にも、脚と思われる部分の破片が見つかっています。本来は全身の像であったと考えると、相当な大きさであったことが想像できます。本コーナーで紹介している手代森遺跡の遮光器土偶(アイちゃん)と比べると、大きさの違いは歴然としており(アイちゃんは身長31cm)、表現の仕方にもかなりの違いがみられます。
作られた時期は縄文時代後期と推定されていますが、このような大型土偶は縄文時代全体を通しても最大級のものです。縄文時代の風俗や信仰を知るうえで極めて貴重な資料であることから、昭和59年、国の重要文化財の指定を受けました。
晩期(およそ3千年~2千3百年前)
晩期になると、文様はさらに流麗になります。東北地方に広く分布するこの時期の土器を亀ヶ岡式土器とも呼んでいますが、最近では土器のうつりかわりが明らかになった大船渡市の大洞貝塚にちなみ大洞式と呼ぶことが多くなってきました。
黒光りする土器、複雑な文様を浮き彫りや透かし彫りにした土器など高い技術でつくられるものが増えます。また、皿や高坏など盛りつけ用の土器も発達します。
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