平成25年度調査
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- 外屋敷ⅩⅨ遺跡(久慈市)
- 北野ⅩⅢ(久慈市)
中野遺跡
東日本大震災関連発掘調査
いわて調査情報/2013年9月17日現在
DATA
※この遺跡の調査は終了いたしました。
遺跡名 | 中野(なかの)遺跡 |
所在地 | 岩手県大船渡市三陸町越喜来字仲崎浜121番地1ほか |
事務所 | 080-2819-6650 |
調査期間 | 平成25年4月4日~9月13日 |
時代 | 縄文時代前期・中期 |
検出遺構 | 竪穴住居、住居状遺構、土坑、柱穴 |
出土遺物 | 縄文土器、石器(石鏃・石匙・磨製石斧・磨石・敲石)、土師器 |
先週とは別な場所でもたくさんの竪穴住居が見つかりました。写真は重なった状態で見つかった6棟の竪穴住居を撮影したものです。重なり具合が激しく、複式炉がまるで列をなして並んでいるように見えます。縄文人はよほどこの場所が気に入り、何度も家を作ったのでしょう。
発掘調査は13日をもって終了しました。60棟を超える竪穴住居群が見つかり、中野遺跡が縄文時代中期の大集落であったことが分かりました。今後、出土した縄文土器や石器の整理が進められます。その成果などはいずれどこかでお伝えできたらと思います。
(平成25年9月13日現在)
中野遺跡の発掘調査もいよいよ終盤です。4月からの調査で見つかった竪穴住居は60棟を超えました。写真はその一部を撮影したものですが、これまでにも何度か紹介してきました『複式炉』がたくさん写っています。
また写真右側にはたくさんの石が写っています。これらの石は一つ一つが重さ数十kgにも及び、また人間よりも大きい石もたくさんあります。これらの石は複式炉やそれを伴う竪穴住居上に覆い被さり、住居の壁などを壊しています。これらは山側の高い方からの落石と考えられ、中野遺跡の縄文集落の上まで転がり、竪穴住居を壊していったのではないかと考えます。いわば、大昔の自然災害の痕跡といえるかもしれません。
(平成25年9月8日現在)
今週、発掘調査している範囲を空から撮影してもらいました。写真中央の地肌が見えている場所がその範囲です。
中野遺跡はやや急な斜面地に立地し、そこから海(越喜来湾)へと下がっていくのが見て取れます。また遺跡よりも高い方(写真の右下)は大六山という山へと向かっており、山あり、海ありで縄文人にとっても住みやすい場所だったことが想像されます。
(平成25年8月30日現在)
先週紹介した竪穴住居は、今週焼土を取り払い、複式炉の調査に進んでいます。
そして石で囲われた炉の内側を掘り進めたところ、2個の縄文土器が見つかりました。不思議なことに、見つかった縄文土器のうち、写真左の土器は、炉石と炉石に挟まれた状態のままでした。このように、縄文土器が挟まっていては、中で火を焚くことはできないでしょう。
したがってこの縄文土器は、この複式炉あるいはこの竪穴住居が役目を終え、廃絶される際に、おそらくここの住人である縄文人がわざわざ置いていったのではないでしょうか。
その理由は分かりません。これから考えていきたいと思います。
(平成25年8月25日現在)
写真は竪穴住居の埋土を掘り下げている途中を撮影したもので、四角く石が並んでいるのが、複式炉と呼んでいる囲炉裏の跡です。その複式炉を覆うように焼土(赤い土)が堆積しているのが見つかりました。この焼土は炉のある面よりやや浮いた状態で見つかっており、またその大きさからみても、炉を使った際に出来た焼土とは考えられず、この炉が使われなくなってから堆積したものと推測されます。
縄文人はなぜこのようなことをしたのでしょうか。中野遺跡では同じような現象が数か所で見つかっています。
(平成25年8月19日現在)
8月3日の現地説明会にはたくさんの方に来ていただき、ありがとうございました。今週は現地説明会でお目にかけられなかった竪穴住居を紹介します。
写真の竪穴住居は今回調査した範囲の中で、もっとも南側に位置する竪穴住居で、直径6mの丸い形をしています。特徴的なのは柱穴と思われる小さい穴がそれぞれ2~3個ずつかたまって見つかっていることです。これらの柱穴から住居が2・3回建て替え(リフォーム)していることが考えられ、その際、柱の位置も微妙にずらしたものと想像されます。
また囲炉裏の跡である複式炉もいままで紹介してきたものと比べ、石の並び方がかなり歪です。これも建て替えの際に、古い複式炉の一部だけ壊し、新しい複式炉を作ったため、建て替え以前、以後の石が一緒に残っており、歪に見せているものと思われます。
(平成25年8月5日現在)
写真は、今週調査した炉(囲炉裏)です。以前お見せした「複式炉」とは形が違い、石を楕円形になるように並べるのが特徴です。こういった形の炉を「石囲炉」と呼んでいます。石囲炉の脇からは当時使っていたと考えられる縄文土器が横倒しの状態で見つかりました。
8月3日午後1時からの現地説明会では、これまで紹介してきた遺構や遺物を直に見ていただこうと思います。お気軽にお越し下さい。
(平成25年7月29日現在)
先日、大変貴重な遺物が出土しました。写真はヒスイ製のペンダント(垂飾品)です。大きさは約3cmでほぼ中央に紐を通すためと思われる穴が開けられています。
ヒスイはごく限られた場所でしか見つからない石材で、産地では、新潟県糸魚川市姫川流域や富山県宮崎・境海岸が有名です。そしてそれらの場所から中野遺跡は400kmも離れており、中野遺跡の縄文人にとってもヒスイは大変貴重で珍しいものであったと考えられます。
どのような人がこのペンダントを身につけていたのでしょうか。
(平成25年7月19日現在)
中野遺跡の発掘調査では縄文時代中期後葉(約4,200年前)の竪穴住居が現在までに30棟以上見つかっています。 今までもご紹介してきましたが、竪穴住居の床面には複式炉と呼んでいる石を並べて作った囲炉裏が設置されます。
上の写真も複式炉で、石による四角い囲いが3つ並んでいます。そのうち真ん中の石囲いには、縄文土器が横倒しの状態で設置され、上から石で押さえて動かないようになっていました。縄文土器は底面がないだけで概ね完全な形でした。石囲いの内側は焼土が堆積しており、火が使われたのは確かです。この縄文土器は火を使う際、何かの役割を担っていたのでしょう。中野遺跡では同じような複式炉がいくつも見つかっています。
(平成25年7月12日現在)
石製の垂飾品が出土しました。
おそらくネックレスのように胸元を飾るアクセサリーだったと思います。真ん中に穴が開いているので、そこに紐を通したものと考えますが、それにしても穴の開け方は見事です。材質には柔らかい石を用いていますが、それでもそう簡単にあけられるものではないでしょう(穴を開けるのに石錘という石器を使ったと考えられています)。
いっしょうけんめい作ったアクセサリーでオシャレする縄文人の姿が目に浮かびます。
(平成25年7月5日現在)
調査区の北東端で調査した竪穴住居です。この竪穴住居は壁の一部が昔の川のあとによって壊されていましたが、囲炉裏のあと(複式炉)や大きな柱穴がたくさんみつかっています。特徴として、炉が2個(写真中央と左下)みつかったこと、また柱穴が部分的に二重に並んでいることがあげられます。このことは竪穴住居が一度大きく建て替えられたことを示しています。家を大きくしたかったのか、あるいは家の向きを変えたかったのか、建て替えの理由は定かではありません。ただ不思議なことに炉は新旧ともにしっかり残っていました。
住居の建て替え後、古い炉はどうしていたのでしょうか。謎です。
(平成25年6月27日現在)
遺物がたくさん出土した黒色土を掘り下げていたところ、『剥片(フレイク)』と呼んでいる石器が重なるようにして出土しました。剥片とは石鏃(矢じり)などの小さい石器を作る際の素材や、石器製作の際に出る薄い石のかけらのことです。剥片は出土状態の写真(大写真)を撮影する前にも同じ場所から見つかっており(写真右下)、全部で30個ありました。
これらの剥片は本来、袋か何かに詰められていたのかもしれません。縄文人がうっかり落としていったのでしょうか。
(平成25年6月21日現在)
写真は後世の削平で壁が消失してしまったものの、複式炉と柱穴、壁溝が残っていたため、その床面のみ見つけることができた竪穴住居です。
竪穴住居は残された壁溝の範囲から直径約6mの円形であったことが推定されます(黄色い点線の範囲)。複式炉はとても大きく、床面の広い範囲を占めています(大人と比べるとその大きさが分かります)。あまりにも大きいので竪穴住居が火事になったりしなかったのか心配になります。
(平成25年6月14日現在)
以前紹介したものとは別の竪穴住居跡をご紹介します。住居の床面には複式炉(今で言う囲炉裏)が設置され、屋根を支える柱穴が並びます。また壁際には細い溝が途切れ途切れに巡っています。土の壁が崩れないように板材か何かをはめ込むための溝でしょうか。この竪穴住居は別の竪穴住居によって一部が大きく壊されていました(写真右下)。実はこの周りにはたくさんの同じような竪穴住居が少しずつ重なった状態で見つかっています。いずれご紹介したいと思います。
(平成25年6月7日現在)
竪穴住居の埋め土からはたくさんの土器や石器が見つかり、当時の生活を考える材料になります。
写真は竪穴住居から見つかった石皿という石器です。残念ながら割れて一部は消失しています。石皿は住居の床面よりやや浮いた所からひっくり返った状態で出土しています。特徴的なのは、底に丸い脚が付いていることです。割れているところも含めると4つ脚だったと考えられます。この石皿はどのように使ったのでしょうか。食べ物を盛り付けたのでしょうか、木の実をすりつぶす台だったのでしょうか。答えは分かりません。想像してみて下さい。
(平成25年5月30日現在)
先週、紹介した竪穴住居は床面の調査が進み、竪穴住居の全体像がさらに分かってきました。南壁寄りには囲炉裏(写真下側の四角い石がならんだものがそうです。『複式炉』と呼んでいます)が設置され、ここで食料の調理や暖をとったものと考えられます。
また、屋根を支えるための柱穴が4~5本ならんでいます。いずれの柱穴も深さは50cm以上で、立派な柱が立っていたことが想像されます。残念ながら屋根は見つかりませんが、当時は立派な柱に支えられた大きな屋根がついていたことでしょう。
(平成25年5月24日現在)
以前、ご紹介した調査区の北側の一番高い所から見つかった竪穴住居の調査が進んでいます。埋まっていた土を取り除くことで、床面や壁があらわになってきました。壁は残念なが斜面による削平や木の根によって半分ほど壊されていましたが、床面からは『複式炉』と呼んでいる縄文時代の囲炉裏の跡(手前)や柱穴が見つかっています。壁際には燃えた土が大量に堆積しているのも確認できました。これらのひとつひとつを細かく調査していきます。
来週から本格的に竪穴住居を発掘調査していきます。
(平成25年5月17日現在)
今週は調査区のほぼ中央部分で作業しました。この場所からも竪穴住居と考えられるプラン(黄色の地面の中で、黒色の土が円形や四角形になって見えているところがそうです)がたくさん見つかっており、中野遺跡が縄文時代(今から4,000年ほど前)におおきなムラだったのではないかと想像しています。
来週から本格的に竪穴住居を発掘調査していきます。
(平成25年5月13日現在)
調査区北東端の黒色土を掘り下げていたところ、丸いサラダボールのような形の縄文土器が出土しました。残念ながら割れていますが、本来は完形の状態でこの場所に埋まっていたと考えられます。
写真を撮影した後、土器は取り上げましたが、その際後ろ側に注ぎ口が付いていることに気付き、この土器が『注口土器』であることが分かりました。
(平成25年5月2日現在)
調査区の北東端から撮影した写真です。向こう側には海(越喜来湾)が見えています。一段高い場所には直径4~5mほどの大きさの黒いシミがたくさん分布していました。またそこから縄文土器や石器も見つかっているので、これらのシミは縄文時代の人が住んだ家(竪穴住居)や穴のあと(土坑)であると考えます。
今後、これらを掘り進めて行きます。
(平成25年4月26日現在)
調査は北側の一番標高の高い範囲から開始しました。バックホーという重機で表土(現代の土)をはぎ、その後に人の手でクリーニングしていきます。その際土器や石器が出土し、また写真左側に写っているような黒い大きな『シミ』が見つかりました。この黒いシミについては、試し掘りをしたところ、黒い土の下から石を並べた炉が見つかり、竪穴住居であることが分かりました。縄文時代中期の頃のものと考えています。
(平成25年4月19日現在)
中野遺跡は大船渡市三陸町の遺跡で、昨年度に引き続き、発掘調査が行われることになりました。写真は遺跡を上空から撮影したものです。遺跡は越喜来湾(写真下・南)と吉浜湾(写真上・北)に挟まれた半島に位置し、大六山から続く斜面中腹に立地しています。昨年同様に縄文時代の集落が見つかるものと考えています。
(平成25年4月12日現在)
※このホームページは公益財団法人岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センターが、調査した遺跡の情報を提供しています。 掲載されている情報の無断転載はできません。